北都銀行誕生に至る背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 05:02 UTC 版)
1992年当時における秋田県内の銀行の勢力図は、資金量1兆5,000億円を誇るトップ地銀の秋田銀行を筆頭に、6,000億円の羽後銀行、3,000億円の秋田あけぼの銀行が続く“一強二弱”の体制となっていた。こうした中、羽後銀は1995年に迎える創業100周年にむけ、資金量9,000億円の達成のため業容の拡大に取り組んでいたが、自己資本比率規制によりむやみに資産は増やせない状況下にあり、徹底した合理化を図るにせよ資金量は1兆円は欲しいと考えていた。一方、秋田あけぼの銀は1991年に合理化推進のため実業団野球チームを解散したほか、これからのコンピュータ投資には最低1兆円の資金量が必要であると認識しはじめていた。この資金量1兆円への渇望が、両行が合併に向う大きな誘引となった。また、今後一層の金融自由化や国際化が進展し多岐にわたることが予想される顧客ニーズを踏まえ、収益状況に余裕のある段階での合併が最良であるとも判断した。 1993年4月1日に誕生した北都銀行は、合併時の店舗合算が131店となり秋田銀の107店を上回る体制となったため、これを有効に活用しリテールバンク「大衆金融」に徹し、地元中小企業や、個人事業主に対する資金提供や経営相談に特化する戦略が打ち出された。合併当初は、県内を代表する二大銀行のひとつとして行内外より歓迎を受け、創業100周年にあたる1995年には業績も順調に伸びていた。この時点では、2005年の創業110周年を目処に、秋田県の企業としては2社目となる東京証券取引所一部上場を計画していた。
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