勝沼郵便電信局舎時代とは? わかりやすく解説

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勝沼郵便電信局舎時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:29 UTC 版)

旧田中銀行博物館」の記事における「勝沼郵便電信局舎時代」の解説

当時新宿駅から八王子駅まで開通していた甲武鉄道(現中央本線)を、甲府駅まで延伸する工事に伴い予想され電信需要備えるために、勝沼郵便電信局舎は建設された。明治期山梨県内建築され旧睦沢学校校舎などの藤村式建築を手がけた、下山大工棟梁である松木輝殷(まつきてるしげ)によって施工されたものと伝えられている。松木輝殷は1843年天保14年)、南部下山(現南巨摩郡身延町下山)に生まれ、主に擬洋風学校建築を手がけた人物として知られている。 その外観は、明治期代表的な洋風建築である初代帝国ホテルなどに見られる石造り外装を灰漆喰真似た横縞模様パターンで、当時左官技術盛んな様子をうかがうことができる。また、車寄せ八角には細かくノミ矢羽根状の装飾施されており、玄関扉上部建物2階正面にはベランダ設けられている。 松木輝殷に建設依頼したのは、勝沼郵便局前身である勝沼郵便取扱所所長であった田中英であった田中勝沼宿に隣接する東山梨郡等々力村戸長務めていたことから、1876年明治9年)に、隣村祝村作られ擬洋風建築の祝学校や、1880年明治13年)に完成した擬洋風建築勝沼中学校建設係わっていた。その際、祝学校建築を手がけたのが松木輝殷であり、それ以来2人旧知の仲であったという。 勝沼郵便電信局開業当時写真石造風の漆喰壁と車寄せ八角柱

※この「勝沼郵便電信局舎時代」の解説は、「旧田中銀行博物館」の解説の一部です。
「勝沼郵便電信局舎時代」を含む「旧田中銀行博物館」の記事については、「旧田中銀行博物館」の概要を参照ください。

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