加里屋城・大鷹城時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:50 UTC 版)
大鷹城は1452~1455年(享徳年間)、岡豊前守光広が加里屋に「古城」を築城[要ページ番号]し、この地で初の築城となる[要出典]。赤穂に生駒親正が伊勢国神戸から1585年(天正14年)に入府し、石高は桃山・江戸期を通じて当藩最大の6万石[要文献特定詳細情報]を与えられたが1586年(天正15年)には讃岐に移され、赤穂一郡は宇喜多秀家の所領となる。「宇喜多秀家士帳」に赤穂の石高・居城の記載が無いことから[要出典]、他郡からの間接統治の可能性も示唆される[要文献特定詳細情報][要ページ番号]。宇喜多氏は1600年(慶長5年)に関ヶ原の合戦により改易・流罪となり、姫路藩主・池田輝政の弟の長政が赤穂領主に任ぜられると、「掻上城」を赤穂郡加里屋に築城し、これが赤穂城の前身となる。輝政の次男で備前岡山藩主・忠継の所領となった1613年(慶長18年) 、城に一重の堀・石垣・櫓・門を造営、忠継の弟・政綱は3万5000石を与えられ1615年(元和元年)に赤穂藩が立藩し、御殿を建てる。その政綱が嗣子なく1631年(寛永8年)に死去すると、弟の輝興が入封してさらに櫓・馬屋を造った。狂乱し刃傷沙汰の咎で正保2年に改易(正保赤穂事件)され(1645年)、水谷勝隆(備中松山藩)の一時預かりとなった城は同年、浅野長直を5万3000石で迎える。
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