加工輸出区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 03:07 UTC 版)
加工輸出区構想は1960年代に登場した。当時の台湾政府は財源不足、外貨不足、高い失業率などの問題を抱えており、欧米や日本の加工業を誘致することでの経済発展を計画した。台湾政府は「外国人投資条例」、「華僑回国投資条例」、「奨励投資条例」など関係法令を整備、自由貿易区と工業区を兼ね具えた加工輸出区を高雄に設置した。設置後僅か2年で80社以上が進出、そのため1968年には楠梓加工輸出区の建設に着手1973年に完成している。この加工輸出区の成功は台湾における高度経済成長を創出した 1987年より、新台湾ドル高と国際市場の変化があり、台湾における労働集約型の産業はその転換を迫られ、加工輸出区内の工場は多くが撤退、より労働力のやすい中国や東南アジアへと移転していった。また1990年代からは台湾内の工場では大量の外国人女性労働者を雇用し、台湾人に代わって生産に従事するようになってきている。
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