前線爆撃機の完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 05:12 UTC 版)
「Tu-2 (航空機)」の記事における「前線爆撃機の完成」の解説
1941年1月には、最初の試作機となる航空機「103」(「58」)が初飛行を実施した。続いて、2つめの試作機となる航空機「103U」(「59」)が完成し、工場試験を好成績で通過した。航空機「103U」は素晴らしい飛行性能を発揮した。この機体は量産に移されることが決定した。 独ソ戦が開始されると、監禁されていた設計者の多くは解放され、前線から離れた南西シベリアのオムスクへ疎開した。そのため、オムスクには急遽多くの航空機生産工場が建設されることとなった。 トゥーポレフも、この地において航空機「103」と「103U」の完成作業を急いだ。機体の能力向上のため、新しい動力機関として空冷式のM-82が選択された。この星型エンジンを搭載した機体は、航空機「103V」(「60」)と呼ばれた。 1941年秋になると、それまでA・A・アルハーンゲリスキイ記念試作設計局からアレクサンドル・アルハーンゲリスキイがトゥーポレフのもとに戻った。アルハーンゲリスキイは、かつてトゥーポレフのもとでSB(高速爆撃機)の開発を行い大きな成功を収め、独立後には自身の設計局で急降下爆撃機Ar-2を開発した実績があった。彼の参加は、今回の新型爆撃機の方向性に大きな影響を及ぼすこととなった。 航空機「103V」は1941年12月15日に初飛行を果たし、各種試験と完成作業が急がれた。
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