出生・家族との亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 05:51 UTC 版)
「ユースフ2世 (ナスル朝)」の記事における「出生・家族との亡命」の解説
1356年、ムハンマド5世(英語版)(在位: 1354年 - 1359年、1362年 – 1391年)の長男として生まれる。そしてスルタンの2つの治世の最初の間に生まれた唯一のもの。生年月日は不明であるが、歴史家のフランシスコ・ヴィダル・カストロは生年についてはヒジュラ暦757年、すなわち西暦1356年であると推定している。1359年8月23日に父親が失脚したとき、ユースフは3歳くらいだった。その夜、ムハンマド・エル・ベルメホ(後のムハンマド6世(英語版))率いる一団がアルハンブラ宮殿の壁を越え、スルタンの異母兄であるイスマーイール2世を即位させたのである。ユースフは、アルハンブラ宮殿のすぐ外にある別荘のヘネラリフェ(Jannat al-'Arīf)の庭園を父と共に歩いていた。父は王国の東部にあるグアディクスに逃げ、地中海を渡ってモロッコのマリーン朝の首都フェズに亡命することになった一方で、ユースフはグラナダに残されたが、11月25日頃、イスマーイールはユースフとその母をフェズでムハンマド5世に合流させることを許した。 ムハンマド5世は、1361年8月にアルアンダルスに戻り、前哨地のロンダのマリーン朝の対抗法廷を創設し、この前年にイスマーイール2世を退位させたムハンマド6世との内戦を開始した。時のカスティリャ王ペドロ1世に支持されたムハンマド5世が優勢になり、ムハンマド6世はアルハンブラ宮殿から逃亡し、1362年3月13日にペドロに亡命を求めた。ムハンマド5世は廃墟となった王宮に入り、王位を取り戻した。ムハンマド6世は、4月25日にペドロによって殺害され、その頭がムハンマド5世に送られた。
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