アルアンダルスに戻り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 05:51 UTC 版)
「ユースフ2世 (ナスル朝)」の記事における「アルアンダルスに戻り」の解説
父王の復位の際、ユースフはまだフェズにいた。同じころマリーン朝のスルタンとなったアブ・ザイヤン・ムハンマドは、彼を交渉材料に使って、ムハンマド5世にロンダを返還させようと試みた。マリーン朝は降伏し、ユスフは父の宰相イブン・アル・カティーブ(彼もモロッコに亡命していた)を連れてグラナダに戻ることを許されたが、ロンダはナスル朝の支配下に置かれたままであった。ユースフの一行は1362年6月14日に首都グラナダに到着した。兄弟であるアブ・ナスル・サド、ナスル(どちらもおそらく1362年から1369年の間に生まれた)とアブ・アブドゥラ・ムハンマドが生まれたのはその後のことである。 ユースフはヒジュラ暦764年(およそ1362年10月から1363年10月)に割礼を受けた。男の子は通常7歳で割礼を受けていたことから先述の生年の特定に繋がった。ムハンマドは、1363年6月26日ムハンマド5世は義勇軍(مشيخة الغزاة、当時ナスル朝にあった軍事組織のこと)のシェイク・アルグザット(shaykh al-ghuzat、長官)であったヤヒヤ・イブン・ウマル(Yahya ibn Umar)を解任した。義勇軍はナスル朝のために戦う北アフリカの兵士で、その長はベルベル人のマリーン朝に関わる反体制派の王子だったが、スルターンは若いユースフを長に、サード(Sa'd)を司令官に任命したのである。ユースフはまた、ムハンマドから無税の不動産を受け取った。 ムハンマド5世はナスル朝のスルターンの中で最も長い間その統治権を握った。ユースフが成人期に達した頃、父に反抗した疑いで拘留され、法廷に召喚されたが、調査の結果無罪となった。1390年、ムハンマドとカスティーリャ王フアン1世が両王国間の平和を拡大する条約に署名した際には、ユースフとフアンの息子エンリケ3世も署名を行った。ユースフは、1391年1月に父親が亡くなったとき約35歳であった。
※この「アルアンダルスに戻り」の解説は、「ユースフ2世 (ナスル朝)」の解説の一部です。
「アルアンダルスに戻り」を含む「ユースフ2世 (ナスル朝)」の記事については、「ユースフ2世 (ナスル朝)」の概要を参照ください。
- アルアンダルスに戻りのページへのリンク