出生・大内家の猶子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 04:26 UTC 版)
天文元年(1532年)、豊後大友氏の20代当主・大友義鑑の次男として生まれる。幼名は乙塩丸。 天文12年(1543年)に尼子晴久との戦いで大内軍が敗走する際、大内義隆の養嗣子・晴持が死去。継嗣を失った義隆は天文12年(1544年)、姉婿である義鑑の次男・乙塩丸を猶子とした。元服の際に室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を与えられ、晴英(はるひで)と名乗る。 晴英はあくまで養嗣子ではなく猶子であり、これは義隆に将来実子が生まれなかった場合に家督相続人とする含みを持っていたが、大友氏ではこれを歓迎した。しかし、天文14年(1545年)に義隆の実子・義尊が誕生したため、猶子関係を解消され帰国した。この時の義隆の実子誕生と晴英の縁組解消は九州諸大名にかなりの衝撃を与えたとされている。
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