出合之像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 01:22 UTC 版)
日吉丸(幼い頃の豊臣秀吉)は、8歳の時に奉公に出され、12歳の時に奉公先の陶器屋から逃げ出した。矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士の一団が通りかかり、その頭が日吉丸の頭を蹴ったところ日吉丸はこれを咎め、侘びていけと頭を睨みつけた。この頭は海東郡蜂須賀村に住んでいた小六正勝であり、日吉丸の度胸の大きさを買って手下にしたという。しかし実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は幼少時代どころか既に亡くなっているため、この話は作り話であるとされている。 1988年(昭和63年)12月、岡崎市島坂町の株式会社トーアの後藤真利社長が「岡崎市の西の入口を飾るモニュメントとして建て、街づくりに役立ててほしい」と市に寄付を申し出て、約1年がかりで「出合之像」は製作された。岡崎産のみかげ石づくりで、矢作橋の西詰め北側に建立された。1990年(平成2年)2月28日、除幕式が行われた。 掛け替え工事のため、2006年(平成18年)2月から一時的に「出合之像」は撤去されたが、架け替え及び旧橋撤去の工事終了後の2014年(平成26年)1月に元の場所に戻された。
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