冷徹な統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:35 UTC 版)
ワラキアは元々土着の豪族による連合政権といった色合いが強かった。ヴラドの祖父であるミルチャ老公は公権を強化したが、彼の死後、息子たちと彼の異母兄であるダン1世の系統(ダネシュティ家)との間の公位争いが激化した。有力な貴族の合議によってたびたび君主が入れ替わったことでその権威は失墜。かわって、貴族勢力の専横が著しくなった。また近隣にオスマン帝国、ハンガリー、ポーランドといった列強が存在し、それらからの干渉も受けた。ヴラドもオスマンやハンガリーの思惑で即位したが、その中にあって君主に権力を集め、中央集権化を目指したとされる。 伝承によれば、ヴラドは有力貴族を招待して酒宴を開き、油断した貴族らを皆殺しにしたという。また治安維持や病気流行の抑止として貧者や病人、ロマ(ジプシー)を建物に集めて火を放ったという。また次のような伝承もある。オスマン帝国からの使者がヴラドに謁見する際、帽子を被ったままであった。なぜ帽子を取らないのかと問うと、トルコの流儀であると応えた。ヴラドはならばその流儀を徹底させてやると言い、帽子ごと使者の頭に釘を打ち付けたという。
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