冬季作戦大方針の変更と海城攻防戦
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「日清戦争」の記事における「冬季作戦大方針の変更と海城攻防戦」の解説
10月8日イギリスが、翌日イタリアが講和の仲裁を、また11月22日清が講和交渉を申し入れてきた。講和を意識する伊藤首相と陸奥外相は、山海関や台湾や威海衛の攻略など大きな戦果が必要と考えていた。また大本営は、1)渤海湾北岸の上陸予定地点が不結氷点、2)威海衛にこもる北洋艦隊一掃の2条件が揃えば、8月31日に定めた「冬季作戦大方針」を変更し、冬季の直隷決戦を考えていた。結局のところ、清の占領地で第一軍と第二軍が冬営するとともに(やがて酷寒に苦しむ)、前者が海城攻略作戦を、後者が威海衛攻略作戦(山東作戦)を実施することが決まった。 12月1日、第一軍司令部は、第三師団長桂太郎陸軍中将に海城攻略を命じた。第三師団は、凍結した坂を駄馬が超えられない等、冬の行軍で苦しんだものの、13日に海城を占領した。しかし、そこからが問題であった。海城は、北西15kmに牛荘(遼河河口の港町)が、東北70kmに遼陽が、南西60kmに蓋平がある陸上交通の要衝で、清にとっても重要な拠点であった。このため、翌年2月27日まで4回の攻防戦と、小ぜりあいが続くことになる。 12月30日着の大本営訓令により、海城の第三師団(第一軍)支援として、第二軍のうち山東作戦に参加しない第一師団から混成第一旅団(歩兵第一旅団が基幹)が編成・抽出され、蓋平方面に進出させることになった(翌年1月10日に蓋平占領)。その後、直隷決戦または講和を踏まえた第一軍による台湾攻略という大本営の考えと異なり、第一軍が第二軍を誘う形で新作戦(遼河平原での掃討作戦)が動き始める。
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