内藤新宿の人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 07:00 UTC 版)
ふみ 内藤新宿に下屋敷を抱える、老中まで勤めたさる大名の正室。半年かけて国元から訪ねてきた乳母が亡くなったため、下屋敷内での湯灌を正縁に願った。 帰り際、ふみは正縁の出自が武家だと見抜き、立ち居振る舞いに滲む出自は隠せないと語った。そして、正縁の手を取り、「この手で清められて、乳母も心穏やかに浄土に旅立ったろう。得がたい手だ」と感謝した。その言葉は、ともすれば蔑まれがちな墓寺の仕事を続ける中で、正縁の励みとなった。 その後、評判を聞いた武家屋敷からの依頼が増えることになる。 後に病死し、生前の願い通り、正縁の湯灌を受けた。その時、正縁と正念は、夫婦としてではなく、共に仏の弟子として同じ道を歩んでいこうと決意した。死出の支度には、粗末な柘植の櫛を用いるように遺言し、その理由を「生きている間は、驕りの鎧を身につけ、嫉妬という醜い性根を捨てられなかった。浄土に行けるなら、すべて捨て去った証しとしてこの櫛を持たせて欲しい」と語ったという。 紋(もん) 内藤新宿の油屋久兵衛(きゅうべえ)の娘。髪切り魔を恐れて、多くの娘が髪を横に広げる灯籠鬢に結う中、あえて髪を高い位置で結ぶ兵庫髷を続けた。その器量から新宿小町と呼ばれているが、本人は田舎臭い呼び名だと嫌がっている。 正縁のことは知っており、町で見かけたときには、「屍洗いが町中に出て来て、縁起でもない」と罵倒した。その後もとげとげしい態度を見せるが、麦湯屋台の女によれば、それは正縁の持つ品の良さに嫉妬しているからだという。 蛍狩りの夜、お忍びで来ていた大名(ふみの夫。父の久兵衛よりはるかに年上)に見初められ、側室になることを求められた。紋は手代の左舷太(さげんた)と好き合っていたのだが、大名家の要求を断り切れるはずがない。そこで、自ら髷を切り落とし、その目論見通り、側室話は大名家の方から破談にしてきた。ところが、紋の態度に違和感を持った窪田同心の執拗な尋問に、つい「犯人は岩吉だ」と証言してしまう。その後、紋はやがて左舷太と所帯を持つため、共に大坂の親戚の元に旅立って行った。
※この「内藤新宿の人々」の解説は、「出世花」の解説の一部です。
「内藤新宿の人々」を含む「出世花」の記事については、「出世花」の概要を参照ください。
- 内藤新宿の人々のページへのリンク