内燃化構想と部分廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/20 05:41 UTC 版)
「中武馬車鉄道」の記事における「内燃化構想と部分廃止」の解説
ここに至り、会社が考えたのが動力の蒸気化・内燃化である。要は馬を飼育するために金がかかっているのだから、その馬をなくしてしまえばよい、という発想であった。 この発想に思い至った会社は、さっそく行動を開始する。1904年10月8日に岡崎社長と2代目の副社長・綿貫金造などが、当時蒸気化構想のあった豆相人車鉄道に視察を行い、内燃化を決定。臨時株主総会でも追認され、大阪の福岡鉄工所が造っていた石油発動車(小型船舶用の焼玉エンジンを搭載した蒸気機関車形の内燃機関車)を使用することとなった。 翌1905年5月25日、石油発動車の試運転が社線内で行われ、馬力と比べコストの上で極めて安上がりであることが確認された。これにより内燃化構想はすんなりと進むかと思われたが、詳細は不明ながら実現に至らず、内燃化は断念されるに至った。 そうしているうちに青梅鉄道が改軌を行うことになり、当馬車鉄道との平面交叉が障害となることが分かった。このため1907年7月、会社は師岡 - 青梅間を廃止したのである。
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