内川義高
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/15 15:33 UTC 版)
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内川義高(1952年)
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選手情報 | ||||
ラテン文字 | Yoshitaka Uchikawa | |||
国籍 | ![]() |
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競技 | トラック競技・ロード競技 (長距離走) |
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種目 | 駅伝競走・マラソン | |||
大学 | 日本大学 | |||
生年月日 | 1931年4月4日(94歳) | |||
出身地 | 佐賀県神埼郡東背振村 (現・吉野ヶ里町) |
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身長 | 160 cm[1] | |||
体重 | 48 kg[1] | |||
オリンピック | 1952 | |||
自己ベスト | ||||
マラソン | 2時間20分30秒[2] | |||
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内川 義高(うちかわ よしたか、1931年4月4日 - )は、日本の元陸上競技選手、指導者。現役時代の専門は長距離走・マラソン。
1952年ヘルシンキオリンピックのマラソン競技に日本代表として出場した[3]。
来歴
佐賀県神埼郡東背振村(現・吉野ヶ里町)出身[1]。卒業した佐賀県立三養基高等学校では目立った競技歴はなく[注釈 1]、三井山野炭鉱入社後も成績が上がらなかったため、競技をやめる前に一度走るつもりで出た西日本マラソンで3位に入賞し、金栗四三から激励を受けて選手生活を続けることになる[1]。
1951年2月4日に山口県山口市で開催された「ボストン、ニューデリー派遣選手壮行会マラソン大会」に出場し、田中茂樹、野田義一に次いで2時間30分40秒の記録で3位に入り、ボストンマラソン派遣選手候補に選定された[5]。4月のボストンマラソン本番では、優勝した田中から14分近く遅れる2時間41分31秒で8位だった[6]。同年10月の日本陸上競技選手権大会(メイン会場は名古屋市瑞穂公園陸上競技場)のマラソンでは、2時間33分43秒で3位に入賞した[7]。
1952年5月4日の毎日マラソン(当時は大阪市・高石町間で実施)に2時間29分55秒で優勝し[8]、同日に1952年ヘルシンキオリンピックのマラソン日本代表に選出された[9]。しかしオリンピック本番では途中棄権に終わった[10][11][注釈 2]。選手団マラソンコーチの竹中正一郎は『オリンピック大会報告書』の中で、エミール・ザトペックら欧米選手に伍してトップに立つことはあきらめて入賞を狙って走るよう選手たちに指示し、最初の5キロメートル (km)地点では内川はトップ集団から1分遅れの16分40秒(その時点で日本選手トップ)だったと記している[12]。それでも竹中によれば「彼の力よりも、約1分早い」もので、通常ならペースダウンを指示するところ、上位争いの圏内に残るためにはこれ以上落とせなかったという(竹中はそのあとラスト10km地点に移動したため、内川が棄権した地点は目撃していない)[12]。内川に取材した1977年の書籍では、早いペースへの不安から逆にペースを落としたことで「リズムをこわす」形になり、足の痙攣を起こして棄権したという[1]。
その後日本大学に引き抜かれる形で[1]、経済学部に入学する[4]。1954年2月7日の第3回別府大分毎日マラソンに出場して2時間34分48秒で初優勝した[13]。1955年12月5日の第8回朝日マラソン(当時は神奈川県で開催)に出場して2時間32分2秒で5位に入賞し[14]、その結果を受けて2度目となる翌年のボストンマラソン派遣選手に選出される[15]。4年ぶりのボストンマラソン(1955年4月19日)では前回より1つ順位を上げる7位(2時間22分40秒、優勝した浜村秀雄とは約4分差)だった[16][注釈 3]。しかし、1956年メルボルンオリンピックの選考レースだった1956年5月5日の第11回毎日マラソンでは上位に入ることができず、2大会連続の代表を逃した(日大後輩の川島義明が優勝して代表となった)[18][注釈 4]。
在学中には東京箱根間往復大学駅伝競走に第30回(1954年)から第33回(1957年)まで毎年出場し(区間は5区が2回、3区と10区が各1回)、区間最高順位は第31回(3区)と第33回(5区)の2位だった[19]。
大学卒業後はリッカーで競技を続け、毎日マラソンでは第14回(1959年5月)・第15回(1960年5月)で連続して2位に入賞したが、1960年ローマオリンピックの代表には選ばれなかった[20][21]。その後も毎日マラソンでは第16回(1961年)で3位、第17回(1962年、この年から滋賀県開催)で5位と上位の成績を収めた[22][23]。
引退後はリッカーでコーチを務めた[24]。また母校の日本大学のコーチも務め、宇佐美彰朗(大学後輩)の姉と結婚して、1977年時点では姓が「宇佐美」となっていた[1]。1983年当時は千葉県千葉市で薬局とコンビニエンスストアを経営していた[2]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g 佐賀新聞社報道部 編「ヘルシンキの両雄」『佐賀スポーツ人国記』佐賀新聞社、1977年10月、17-19頁 。
- ^ a b 佐賀新聞社佐賀県大百科事典編集委員会 編『佐賀県大百科事典』佐賀新聞社、1983年8月、63頁 。
- ^ “Yoshitaka Uchikawa Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月1日閲覧。
- ^ a b ジャーナリスト研究会 編『現代日本新人物事典 大臣からファッション・モデルまで 1956年度版』近代社、1955年、537頁 。
- ^ 林定人「「戦後日本最高記録」山口コースで樹立さる」『教育広報』第3巻第3号、山口県教育委員会、1951年3月10日、48-49頁。
- ^ 「田中少年優勝 ボストンマラソン 小柳ら五、八、九着」『新聞月鑑』第3巻第28号、新聞月鑑社、1951年5月、78頁。
- ^ 『オリンピック大会報告書 第15回(1952年ヘルシンキ)』日本体育協会、1953年、178-179頁 。
- ^ 北海道新聞社 編「オリンピック陸上代表最終選考競技会」『北海道年鑑 昭和28年版』北海道新聞社、1952年、245頁 。
- ^ 「マラソン代表も決る」『新聞月鑑』第4巻第41号、新聞月鑑社、1952年6月、89頁。
- ^ a b 北海道新聞社 編「スポーツ オリンピック第十五回ヘルシンキ大会」『北海道年鑑 昭和28年版』北海道新聞社、1952年、238頁 。
- ^ a b 時事通信社 編「スポーツ オリンピック競技大会 第十五回ヘルシンキ大会」『時事年鑑 昭和28年版』時事通信社、1952年、415頁 。
- ^ a b 『オリンピック大会報告書 第15回(1952年ヘルシンキ)』日本体育協会、1953年、181頁 。
- ^ 「内川(日大)が優勝す 別府マラソン」『新聞月鑑』第6巻第62号、新聞月鑑社、1954年3月、102頁。
- ^ 1954 第8回大会 - 福岡国際マラソン公式ウェブサイト(朝日新聞社)
- ^ 「ゴルノ選手(アルゼンチン)優勝 朝日マラソン大会」『新聞月鑑』第6巻第72号、新聞月鑑社、1955年1月、110頁。
- ^ Boston marathon results 1955 - allmarathon
- ^ 読売新聞社 編『読売スポーツ年鑑 1955年版』読売新聞社、1955年、267頁 。
- ^ びわ湖毎日マラソンの歴史 第11回 - 大阪マラソン公式サイト
- ^ 過去の記録 内川義高 - 東京箱根間往復大学駅伝競走公式サイト
- ^ びわ湖毎日マラソンの歴史 第14回 - 大阪マラソン公式サイト
- ^ びわ湖毎日マラソンの歴史 第15回 - 大阪マラソン公式サイト
- ^ びわ湖毎日マラソンの歴史 第16回 - 大阪マラソン公式サイト
- ^ びわ湖毎日マラソンの歴史 第17回 - 大阪マラソン公式サイト
- ^ 飯田高原・マラソンの歴史 - 九重町・玖珠町公式サイト(九重・玖珠スポーツ合宿案内)
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