公募団体主導の構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:03 UTC 版)
この美術館の構想はそもそも、社団法人日展ほか大きな美術団体の公募展が東京都所有の東京都美術館で占めており、非東京都民が公募展を開催する余地がなかったこと、および日本全国規模の公募展が開催可能な国立施設の必要性が求められたことが発端となっている。 その後、美術家や公募団体が文化庁や政党、各地方の国会議員に働きかけた結果、1995年以降、各公募団体の代表作家たちや美術評論家を中心に、国立の新美術展示場建設構想の調査がはじまる。場所は六本木の東京大学生産技術研究所(駒場に移転)の跡地があてられ、建設費は380億円を予定していた。当初は「ナショナル・ギャラリー(仮称)」と呼ばれ、日本の芸術文化の育成・国際的な芸術情報発信拠点としての役割が期待されていた。活動内容は複数の公募展の同時並行開催と、新聞社などの主催の大規模企画展のための会場貸しとされ、美術品コレクションや学芸員は置かない方針だった。 しかしこれに対して、公募団体側も国側も新美術館を通して何を実現したいのか、という展望や戦略がないまま、箱の建設のみを進めていたという、ハード面のみ重視する姿勢に批判もあった。また、ナショナル・ギャラリーという名称になれば、日本国外から来る観光客が、ワシントンD.C.のナショナルギャラリーやロンドンのナショナルギャラリーと同様の美術館施設と勘違いして来館する恐れがあるという批判を受けて「ナショナル・ギャラリー(仮称)」は正式名称には採用されず、公募により「国立新美術館」という名称に決定した。また、外国から美術品を借りる際に、受け入れる学芸員が必要なことや、独自の展覧会も開催すべきだとの指摘を受け、数名の学芸員を置くことになった。
※この「公募団体主導の構想」の解説は、「国立新美術館」の解説の一部です。
「公募団体主導の構想」を含む「国立新美術館」の記事については、「国立新美術館」の概要を参照ください。
- 公募団体主導の構想のページへのリンク