八幡大菩薩の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:09 UTC 版)
前述の大神社女の事件と宇佐八幡宮神託事件は全く別の事件ではなく、当時の仏教政策を巡って朝廷内には民衆への布教を重視する路線と国家の鎮護を優先する路線の対立があり、聖武天皇や孝謙天皇(称徳天皇)、そして宇佐八幡宮の宮司も前者の側に立って仏教の守護神として八幡宮を位置づけていった結果、八幡神自体が政治的な抗争に巻き込まれてしまったとする見方がある。 その中で称徳天皇が死去してその異母妹である井上内親王を妻とする光仁天皇が即位するが、間もなく井上内親王は廃位されて謎の死を遂げたために聖武天皇の血統は絶えた。その後、別の妃の子である山部親王(後の桓武天皇)が皇太子となるが天災が相次いだ。朝廷では称徳天皇や井上内親王、そして彼女達の父である聖武天皇の祟りと恐れた。そんな中で、宝亀8年5月19日(聖武天皇の葬儀から29周年にあたる日)に八幡神が「出家」し(『八幡宇佐宮御託宣集』および『石清水八幡宮并極楽寺縁起之事』奥書)、天応元年(781年)に「八幡大菩薩」の号が贈られた。これは、当時の朝廷が聖武天皇が没後に八幡神と結合したと考え、八幡神に菩薩号を与えて聖武天皇が深く信仰した仏教の守護神とすることでその祟りを防ごうとしたと考えられる。
※この「八幡大菩薩の誕生」の解説は、「八幡神」の解説の一部です。
「八幡大菩薩の誕生」を含む「八幡神」の記事については、「八幡神」の概要を参照ください。
- 八幡大菩薩の誕生のページへのリンク