光謙と競馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 18:29 UTC 版)
明治10年代の日本は軍事的な要請や外交的配慮から馬の改良や馬術の奨励が必要になり、上から模範とするために華族には馬術、競馬が推奨されていた。しかし光謙は競馬に度を過ぎてのめり込み、謹慎処分を受けることになった。 光謙は明治10年代の個人としては日本最大の馬主である。一例として1885年(明治18年)秋の上野不忍池競馬では、全23レース(番外レースを含む)の中で分部所有馬は12勝している。1882年(明治15年) - 1887年(明治20年)にかけての最強の日本馬「岩川」を、光謙は1885年(明治18年)に700円(現在の約3000 - 4000万円)という当時としては非常な高額で購入している。光謙の厩舎は、横浜外国人居留地民や団体のものを合わせても、当時の4大厩舎の一つともいわれるほどだった。また、自ら賞金を出して特別レースを出したりもしている。共同競馬会社の籤馬(抽せん馬)を購入するため東北地方に出張もしている。 光謙は多数の競走馬を所有する馬主としてばかりではなく、自ら騎手として各地の競馬で多数回騎乗している。横浜競馬場での1886年(明治19年)5月の婦人財嚢競走で、分部は日本人として初めての勝利騎手になっている。翌年の横浜競馬場婦人財嚢競走でも勝利騎手になった。 このように明治10年代の日本の競馬界では光謙は非常に目立った存在だった。前述したようにこの時期の華族や上流階級には乗馬や競馬が推奨されていた。しかし、光謙は度を過ぎて競馬にのめり込んだことで「家産を浪費し華族たる品位を失った」とされ、1887年(明治20年)7月に華族会館から謹慎処分を受け、その後は競馬を止めてしまう(少なくとも馬主・騎手として表に名が出ることは無くなっている)。
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