俳優から芸術総監督へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:49 UTC 版)
「ルドルフ・ゼルナー」の記事における「俳優から芸術総監督へ」の解説
ドイツ帝国(第二帝国)バイエルン州トラウンシュタインで生まれる。マンハイムのフランチェスコ・シオリ(1925-1927)、ゴータ(1928/1929)、コーブルク(1929-1931)の劇場で俳優、劇作家、演劇監督としてのキャリアをスタートした。この間に、ゼルナーはオットー・ファルケンベルク監督、レオポルト・イェスナー監督、エルヴィン・ピスカトール監督から影響を受けた。1932年から1937年まで、ゼルナーはオルデンブルク州立劇場のシニアディレクター、制作者、俳優を務めた。 ゼルナーは国家社会主義の文化政策の中でいくつかの作品を手掛けた後、1937年にオルデンブルク州立劇場の演出家に任命された。3年後にはゲッティンゲン州立劇場(1940-1943)に移り、その後ハノーファー州立劇場(1943/1944)のディレクターを務めている。 1943年12月からは、ハノーファー州立音楽学校附属として新たに設立された「ハノーファー演劇学校」も率いた。1944年4月に、アドルフ・ヒトラーはゼルナーをハノーファー州立劇場の総監督に任命した。1944年10月、長年の兵役免除を経て、ゼルナーは運転手としてドイツ国防軍に徴兵された。 第二次世界大戦後、ゼルナーはアメリカ軍の捕虜となり、二か所の収容所に抑留された。1949年にドイツの法廷ではナチズムの「支持者」とされたが、1950年の再審によって「無罪」となった。1948年から1951年までキール、エッセン、ハンブルクで監督を務めた。キールでは、1948年に『ペルシア人 (アイスキュロス)』、1950年に『ベルナルダ・アルバの家 (ガルシア・ロルカ)』を上演し、1961年にはダルムシュタットでも上演した。
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