作品のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 06:15 UTC 版)
「交響曲第1番 (ラフマニノフ)」の記事における「作品のその後」の解説
初演の際の手痛い精神的な打撃にもかかわらず、ラフマニノフはこの作品に愛着があったようで、楽譜をモスクワの自宅に仕舞い込み、たびたび「いつか改訂したい」と語っていた。しかし1917年のロシア革命に伴う混乱で楽譜を自宅に置いたまま亡命したため、楽譜は行方不明となり、改訂の夢はかなわなかった。その後、彼は最後の作品となった『交響的舞曲』(1940年)の第1楽章のコーダにこの曲の主題をより洗練された手法で引用している。 この曲が再び注目されることになったのは、作曲者没後の1945年に音楽批評家のアレクサンドル・オッソフスキーによってレニングラードの国立図書館で初演の際のパート譜一式が発見されたのがきっかけだった。それをもとにスコアが復元され、同年10月17日、モスクワ音楽院大ホールにおいて、アレクサンドル・ガウク指揮ソヴィエト国立交響楽団により復活初演された。初演は大成功に終わり、ロシアにおけるラフマニノフの評価が再燃することになった。楽譜は1947年にソヴィエト国立音楽研究所から出版され、1948年にユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団によって演奏されたことなどにより、世界的に知られるようになった。
※この「作品のその後」の解説は、「交響曲第1番 (ラフマニノフ)」の解説の一部です。
「作品のその後」を含む「交響曲第1番 (ラフマニノフ)」の記事については、「交響曲第1番 (ラフマニノフ)」の概要を参照ください。
- 作品のその後のページへのリンク