余生、死、記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 17:06 UTC 版)
「ベンジャミン・モレル」の記事における「余生、死、記念」の解説
モレルはニューヨークに戻った後で、過去9年間の航海の詳細証言である『4つの航海の話』を書きあげ、1832年に出版した。この本はモレルの日誌に基づいていたが、最終稿の大半はジャーナリストのサミュエル・ワーズワースがモレルのために代筆した可能性が強い。この本が出版された時の受け止められ方について特に記録は無いが、探検家かつジャーナリストであるジェレマイア・レイノルズがモレルの仲間で探検家のナサニエル・パーマーに宛てて、この証言は真実というよりも詩に近いとコメントしたことが残されている。しかし、数年後にエドガー・アラン・ポーがその著書『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』を書いた時に(1838年)、この本から(さらに他の海洋小説から)多くを引用している。 モレルの海での仕事はその後も続き、先ずスクーナーのメアリー・オークリーで太平洋に航海した。この船はマダガスカルの海岸で難破した。その後、ロンドンを本拠にするエンダービー兄弟の海運会社に雇用されようとしたが、チャールズ・エンダービーは「モレルについて多くを聞いており、彼と共に仕事をしてもうまく行かないと考えた」と言った。それから数年後、ジュール・デュモン・デュルヴィルが率いたフランスのウェッデル海遠征隊に応募したが、再度希望する人材ではないとされた。1839年には太平洋に戻ろうとしたが、モザンビークで熱病に罹り、そこで死んだ。43歳あるいは44歳だった。 モレルの短期間の南極探検を記憶させるものとして、南緯59度27分西経27度19分のモレル島があり、サウスサンドイッチ諸島の南トゥーレ島群にあるテューレ島の別名となっている。モレルは太平洋を旅した間に、その海図には載っていない一群の島に出逢い、新しい発見だとして、ニューヨークの知人の名前からウェスターベルト、バーグ、リビングストン、スキディと名付けた。1つの島はモレルの幼児だった息子から「ヤング・ウィリアム・グループ」と名付けた。これらの名前のどれも現在の地図には載っていないが、「リビングストン・グループ」はナモヌイト環礁、「バーグズ・グループ」はチューク諸島(ミクロネシア)だと同定されている。
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