余目領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 13:49 UTC 版)
初代藩主酒井忠勝の次男・忠俊の長男・忠高に天和2年(1682年)余目で5,000石の分知が行なわれ、旗本となった。この後、養子忠雄、養子忠盈と受け継がれたものの、忠盈死去に際し嗣子無く元禄9年(1696年)に収公され幕府領となった。 分知の際の分人は不明だが、忠雄の元禄2年では家中7人、徒8人であった。領主は定府で、領地には年貢徴収にあたった役人1人と手代2人が置かれた。また駿府在番などの幕府軍役負担の際には、本藩庄内藩からの支援を受けていた。 余目領は松山藩が築城を行なう際に、松山藩左沢領と一時交換の形で松山藩領となった時代があるが、幕府代官支配、庄内藩預地を繰り返していた。
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