伊豫田与八郎・岡本兵松の計画
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「明治用水」の記事における「伊豫田与八郎・岡本兵松の計画」の解説
都築の死後には地元の反対もあり、用水の建設計画は頓挫していた。一方、岡崎の庄屋である伊豫田与八郎(1822年 - 1895年)は、栗寺村(現:豊田市)ら支配地域の排水を改善するために用排水計画を立案し、1851年に岡崎藩に提出した。この計画は水路地のある刈谷藩と板倉藩の了解が得られなかったので頓挫した。明治維新後の1872年には額田県に悪水路計画を提出した。 都築家が所有していた石井新田(現:安城市石井町)の開拓農民であった岡本兵松(1821年 - 1903年)は、当時開墾したばかりで畑地ばかりだった新田に水路を作り水田に変えるべきだと考えた。都築の計画を知った岡本はその実現を決意し、1868年に京都民政局に計画を提出した。明治維新の混乱期で行政機関がめまぐるしく変わったためたらい回しを受け、1872年には廃藩置県によって現在の愛知県東部に置かれた額田県に計画を提出するも、県統合により計画は発足直後の愛知県が審査することとなった。
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