伊豫合同銀行の設立
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日中戦争(支那事変)の勃発により戦時経済の色彩が一層色濃くなると、政府は一県一行主義と呼ばれる銀行合同をさらに積極的に推進した。愛媛県内においては、豫州銀行が南予地方、松山五十二銀行が中予地方、そして1900年以来、東予地方の中心銀行であった今治商業銀行が東予と、それぞれの地域を基盤とした三行に糾合された。 3行に集約された後も、一県一行体制への移行が模索された。そして1941年9月1日に今治商業銀行、松山五十二銀行、豫州銀行の3行が合併し、伊豫合同銀行が設立された。本店は旧松山五十二銀行本店に設置された。命名は、日本銀行総裁結城豊太郎によるものである。 1944年12月15日には、伊豫相互貯蓄銀行を合併し、一県一行主義が完成した。 第二次世界大戦では、松山大空襲で本店や9支店が全焼するなど甚大な被害を受けたが、防空訓練の徹底等により重要書類の殆どは難を逃れた。
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