伊藤博文の国葬とは? わかりやすく解説

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伊藤博文の国葬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/27 05:59 UTC 版)

伊藤博文の国葬(いとうひろぶみのこくそう)は、1909年明治42年)11月4日に、東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)の日比谷公園で執り行われた日本国葬である。伊藤博文10月26日に中国東北部ハルビン駅暗殺され、帰国後その功績を顕彰して国葬が営まれた[1][2]

葬送の経過

伊藤の亡骸は、暗殺現場から同じ列車で長春へ送られ、そこから満鉄線に乗り換えて大連に到着した[3]。特別列車で運ばれたのち、派遣された軍艦「秋津洲」に移され、11月1日横須賀軍港へ入港した[3]。柩は臨時列車で新橋駅に到着し、砲車にのせられて赤坂霊南坂の枢密院議長官邸に運ばれた[3]。そして11月4日に日比谷公園で国葬が行われた[1][3]

国葬の式典

当日は早朝から陰鬱な雨模様であった[4]。午前9時、霊南坂官邸を出発した霊柩には、陸軍の寺内正毅乃木希典大島健一村田経芳、海軍の東郷平八郎山本権兵衛斎藤実上村彦之丞瓜生外吉島村速雄日露戦争歴戦の将軍が棺側につき、群衆の哀悼の叫びの中を日比谷公園へと向かった[4]。沿道は未曾有の雑踏を極め、国民は戸ごとに弔旗を掲げてその死を悼んだ。原敬は日記に「実に盛大なる葬儀にて、これまで執行したる国葬中においても、いまだかつて見ざる所なり」と記している[4][注釈 1]

午前10時30分、霊柩は日比谷公園の式場に入り、広庭南寄りに設けられた斎場の中央に安置された[2]。棺の前には大勲位菊花章頸飾をはじめとする内外の勲章20余個が並べられ、左右には天皇、皇太子から贈られた榊、さらに各国元首や皇族から贈られた花輪が飾られた[2]。喪主は伊藤博文の長男伊藤博邦であったが、当時洋行中であったため出席できず、代理として伊藤文吉が務めた[2]。葬儀掛長は枢密顧問官杉孫七郎が務め、国葬儀仗兵指揮官を川村景明が務めた[2]。葬儀掛員、文武官、軍事参議官らがこれに従った[5]

式典には親族のほか、山縣有朋大山巌松方正義井上馨東郷平八郎らの大勲位受章者、侍従長徳大寺実則桂太郎以下の閣僚、文武大官、華族、両院議員、ニコライ教主なども含め、各宗派管長ら約5000名が参列した[6][7]

斎主は大教正千家尊弘で、勅使や皇族の使者に続き、韓国皇帝や各国元首の名代も玉串を供え、葬儀は12時10分頃に終わった[1]。儀式後、霊柩は馬車に移され、親族とともに大井の墓地へ向かった[8]。午後2時40分埋葬地に到着し法会式となった[9]

大井の墓所は、伊藤が藤井清子(博文の孫)を伴って散策中に「よい松だ、恩賜館の庭に植えよう」と語った赤松のあった場所に築かれたと伝えられる[8]

活動写真

この国葬の様子は活動写真としても記録された。東京神田の梅屋庄吉のエム・パテ商会が撮影を試み、日比谷公園の会場では撮影許可が下りなかったため、前日に公園内の松本楼にカメラを隠し、当日梅屋とカメラマンの男沢粛が燕尾服とシルクハット姿で潜入して撮影したという。宮内省職員に制止されフィルムを没収されそうになったが、未撮影のフィルムを渡すことで実際の映像を持ち出したと回想されている。この映画は11月27日から神保町の新聲館などで上映され、『都新聞[要文献特定詳細情報]は「伊藤公爵の靈柩到着と國葬の實況電氣舞踊」などが盛況であると伝えた。[要出典]

また、会場内は洋装喪服のドレスコードが定められ、和装での入場は認められなかったとされる。一方、ロシアに現存する葬列の映像には和服姿の人々や子供の姿も多く映っており、これは会場内ではなく霊南坂官邸から日比谷公園へ向かう道筋で撮影されたものと考えられている[誰によって?][要出典]

脚注

注釈

  1. ^ この記述は『原敬日記』第3巻p.364からの引用。

出典

  1. ^ a b c 鹿洋漁史 (藤崎孝宗) 1910, pp. 83–85.
  2. ^ a b c d e 伊藤博文伝 1941, p. 883.
  3. ^ a b c d 中村菊男 1958, p. 202.
  4. ^ a b c 中村菊男 1958, pp. 202–203.
  5. ^ 中村菊男 1958, p. 201.
  6. ^ 伊藤博文伝 1941, pp. 883–884.
  7. ^ 小川一真 1909, p. 57。小川の写真帳で確認できるのは遺族以外にこの中ではニコライのみである。
  8. ^ a b 中村菊男 1958, p. 203.
  9. ^ 鹿洋漁史 (藤崎孝宗) 1910, p. 86.

参考文献

  • 小川一真『故伊藤公爵国葬写真帖』小川写真製版所、1909年11月16日。NDLJP:781033 
    • 本書は見開いたページの片面(左側)にのみ印刷が施されており、ページ番号は振られていないため、ページ数は便宜的に付したものである。
  • 鹿洋漁史 (藤崎孝宗)『元勲伊藤公爵』博愛館、1910年4月21日。NDLJP:781032 
  • 春畝公追頌会 編『伊藤博文伝』 下巻、春畝公追頌会、1941年。NDLJP:1043542 
  • 中村菊男『伊藤博文』時事通信社〈三代宰相列伝〉、1958年。NDLJP:2983561 



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