仙石貢と大隈重信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:43 UTC 版)
1914年にシーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れ、大隈重信が2回目の内閣を発足させた。内閣鉄道院総裁にこのとき選ばれた仙石貢は、立憲同志会という反政友会派政党組織の幹部であって、鉄道広軌化にも積極的に賛同していた。そのため、同年7月15日に広軌鉄道改築取調委員という、 現状の狭軌を維持する 狭軌のままで行くが軌道を強化する 広軌にして軌道の質はそのままとする 広軌にするのみでなく軌道も強化する の4案について、検討調査を行わせるものを指名し、調査を開始させた。9月3日には添田壽一へ総裁が変わるものの、調査は継続された。 同年11月6日、添田は閣議において、1916年からの25箇年計画で、本州の鉄道を広軌に改造し、軌道も軸重20tに耐えるものにすることを提案するが、大蔵省は予算の問題で難色を示した。1916年の大隈内閣退陣により、調査も中断される。 この時期の大隈らによる改軌論は、政友会への弱体化を図る政策の一部ではなかったかとする見解も存在し、実行に移すつもりが実際にあったのかどうかは不透明である。
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