人別帳その他の管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 01:48 UTC 版)
江戸では切支丹宗門改は毎年行われており連判証文が提出されていたが、町奉行所が人別帳を掌握したことは無く、人別改が恒常的に行われるようになるのは、享保の改革以後のことである。 享保6年(1721年)6月の令で、諸国の田畑の反別・人口を領主ごとに書上げさせた。10月には奈良屋から各町名主に対し人別帳の作成が徹底していなかったことを申し伝えさせ、以後は町年寄のもとに人別帳を集め、毎月提出させるよう町奉行所から命じられた。しかし、町年寄としては全ての町から提出させるのは大ごとなので、従来通り人別帳は名主の保管とし、人数のみを4月と9月の2回報告することにしたいと答申し、そのように決められた。これにより、町年寄は各町の総人数、男女別人数、家持・差配人・店借の区別、父母・妻子・居候の別、出稼人・召使などの事項を把握することとなった。寛政3年(1791年)の町法改正では、この人別書上の提出は4月のみで、9月には変動した数だけ訂正すればよいとされている。 跡式(跡目相続)は、親類や名主・五人組の立合いのもとで生前に遺言状を作成し、町年寄の「遺跡帳」に記入しておくようにと命が出された。さらに、病人などが遺言状の作成を拒んでも親類などが言い聞かせて書かせること、遺言があっても町年寄の帳に記入されていない場合、裁判になれば親類・名主・五人組に過料を命じること、被相続人が頓死した時は筋目を正して相続させるようにと決められている。寛文2年(1662年)の触では被相続人の死後に跡式の問題が発生した場合、遺言状があっても町年寄は確認の記帳をしないとしている。しかし、このような取り決めがなされても、町年寄の遺跡帳への記帳後に公事となる例もあったという。 また、町々での切支丹宗門改に関わる寺手形(寺請状)は、町中連判の手形を町年寄に提出することとなっていた。その内容は、町名主は町内の年寄・月行事の確認を受けて、別途に町年寄へ手形を提出し、家持は名主へ、借家・店借人は家主へ、奉公人は主人へ提出し、それぞれに保管する仕組みであった。
※この「人別帳その他の管理」の解説は、「町年寄」の解説の一部です。
「人別帳その他の管理」を含む「町年寄」の記事については、「町年寄」の概要を参照ください。
- 人別帳その他の管理のページへのリンク