京都府医学校・府立療病院
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「島邨俊一」の記事における「京都府医学校・府立療病院」の解説
1894年(明治27年)12月21日京都府医学校教諭となり、精神病学・神経病学・法医学を担当し、京都府立療病院医員を兼ねた。1895年(明治28年)2月16日神経及精神科部長。 1899年(明治32年)京都帝国大学医科大学が開校し、京都の医学者が次々と引き抜かれる中、医学校・療病院に留まり、9月1日笠原光興に代わって療病院副院長、1900年(明治33年)5月24日加門桂太郎に代わって医学校長に就任し、9月24日副院長を辞した。医学校が人員不足により存続が危ぶまれる中、1900年(明治33年)6月新宮凉亭、9月工藤外三郎、1901年(明治34年)永井徳寿、1902年(明治35年)望月惇一、伊藤元春、池田廉一郎を呼び寄せ、危機を脱することがきた。 1903年(明治36年)5月療病院長に就任して両組織のトップとなり、6月20日医学校が専門学校令により京都府立医学専門学校として認可され、療病院は同校附属病院となった。 1905年(明治38年)10月日露戦争に伴い陸軍衛生幇助員として毎週日曜日大阪陸軍予備病院に出張した。1906年(明治39年)8月9日論文審査により京都帝国大学京都医科大学から医学博士号を受けた。
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