交流のあった政治家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:19 UTC 版)
財界の実力者だが世話好きとの評価が高く、誰であれ分け隔てなく接し、独自のコネクションを形成し、中には銀座の与太者の頭もいたといわれる。 江戸が三井本社の文書課長だった時、成田知巳(日本社会党委員長)は三井化学の文書課長で、毎週役員会の連絡に来ていた。成田は能力抜群、名文達筆、計数に明るく人柄もよく、将来の大物と期待されていた。戦後、成田は長文の三井家批判を新聞に寄せ、中立で衆議院選挙に立候補するが、その時の証拠金10万円は江戸が貸した。この選挙で成田は落選し、利息ともに証拠金を返してきたが江戸は利息は返した。次の選挙で成田は社会党から出馬して当選した。 池田勇人とは自宅がそばだったので非常に懇意にし、三井をやめて政治家にならないかと誘われたが、池田の側近の大平正芳が「政治家みたいな職業はワリがあわず大変だ。せっかく三井でやってて、政治家になるようなバカげたことはするな」といって引き止めた。田中角栄とも大変親しく、田中が江戸の自宅を訪ねてきたことがあったほか、池田に頼まれ田中の娘の仲人も務めた。 このほか、水高後輩の水田三喜男の娘の仲人をやったほか、同様に後輩である後藤田正晴とも懇意で後援会長を務めた。
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