事故前と当日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 07:42 UTC 版)
事故前々日の1985年8月10日から2日間、阪神が平和台球場で地方主催試合(対中日ドラゴンズ戦)を行った。この時は中埜も福岡に赴き、10日の試合後にはロッカールームに戻ってきた阪神の選手と握手を交わし、選手を労っていた。翌8月11日昼に帰阪した。 8月12日、当時の阪神電鉄社長で球団オーナーの久万俊二郎が、東京都千代田区霞が関の運輸省で行われる日本民営鉄道協会(民鉄協)の会議に所要で出席できなくなったことから、久万の代理として急遽中埜が出席することとなり、電鉄本社常務取締役の石田一雄と共に大阪(伊丹)発東京(羽田)行きの全日空(ANA)24便で東京へ移動した。 会議終了後、羽田発伊丹行きの日本航空(JAL)123便に搭乗。飛行中、群馬県多野郡上野村の高天原山山中に日本航空123便墜落事故に巻き込まれ、石田と共に死亡した。63歳没。なお、その日には後に阪神タイガースの選手となる(現在は引退)石川俊介が生まれている。 阪神の21年ぶりの優勝を目前にしての死であった。
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