事件発生から利権回復まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/07 01:35 UTC 版)
「長沼事件」の記事における「事件発生から利権回復まで」の解説
明治5年、周辺の15村が印旛県へ長沼の官有地(国有地)化を申請し、長沼村の意見は聞かず、県の独断で了承してしまう。沼の独占利権を失い、漁業を糧としてきた長沼村民は困窮に陥る事になった。 長沼村は利権を回復しようと県庁へ、小川武平という村の代表が請願しに行くもなかなか聞き入れられずにいた。そんなとき、小川武平が請願へ千葉町に上京したとき、夜店で福澤諭吉の「学問のすゝめ」を購入した。小川は、本の内容に感銘を受け、福澤に事件の収拾を託そうと上京した。直接福澤と会い、福澤も長沼村の利権回復運動に共鳴したという。その後、福澤は、請願書の案文制作や、当時の権令(県令)柴原和や政府の高官の西郷従道などに書簡を送付し、教示するなどして支援した。こうした尽力もあり、明治9年7月、長沼事件は一応解決を見る。しかし、沼は官有地とし、5年ごとの契約で長沼村の借地権を認めるという事になった。 しかし、その後も長沼村は長沼の民有化を目指し運動を展開。福澤も自身が主催する「時事新報」などを通じて長沼村民を支え続け、明治30年3月、内務大臣より、正式に無償払い下げの許可が下り、長沼村の利権が回復した。長沼事件解決の翌年、福澤諭吉は脳溢血で倒れ帰らぬ人となった。
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