予備校講師時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/02 08:56 UTC 版)
駿台予備学校では1990年の論文科開設とともに講師に就任。法学系論文を担当し、主に社会科学系の学科を志望する受験生に小論文指導を行った。しかし受験生への指導方法をめぐり駿台論文科の主任であった最首悟や同僚講師陣と対立。この対立を背景に、受験生世代減少に伴う生徒減で経営合理化を企図する駿台から1998年に解雇を通告される。反発した神津は労働組合を結成して同時期に解雇された世界史科講師とともに労働争議として解雇の是非を争うこととなる。また駿台の不透明な経営実態告発を、神津個人のホームページや駿台校舎周辺でのビラ撒きで情宣の一環として行ったところ、1999年駿台から名誉毀損による1億5千万円の損害賠償を求め提訴され、マスコミをにぎわす駿台争議へと発展した。この争いは東京都労働委員会の調停により2000年に和解、駿台側が損害賠償請求・解雇通知を取下げ和解金を支払うことで決着し、事実上労組勝利に終わった。
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