九州経略の失敗とは? わかりやすく解説

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九州経略の失敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:58 UTC 版)

一色氏」の記事における「九州経略の失敗」の解説

始祖一色公深その子頼行は御家人として鎌倉幕府仕える。建武3年1336年)、頼行と異母弟範氏は、建武の新政から離反した足利尊氏九州落ち従い尊氏多々良浜の戦い南朝方に勝利して東上した後も、九州経略のために留められた。延元2年1337年)、犬塚原の戦いで南朝方の阿蘇惟澄菊池武重大敗し、頼行は討死した。 範氏とその子直氏は鎮西管領(後の九州探題)に任ぜられるも、九州においては菊池氏などの南朝方が強かった上、観応の擾乱幕府方分裂した影響が及び、反尊氏派の足利直冬擁した少弐頼尚にも押されて、尊氏派の一色氏は振るわなかった。正平8年/文和2年1353年)、針摺原の戦いで懐良親王擁する菊池武光軍に大敗喫し正平10年/文和4年1355年)に一色父子長門国逃亡した。直氏は、正平11年/延文元年1356年)に再び九州下向したが、麻生山の戦いでまたも菊池軍に大敗喫し正平13年/延文3年1358年)に京都逃亡している。直氏は関東所領下り鎌倉公方仕え宮内一色氏の祖となった鎮西管領九州探題としての一色氏は、一時的に肥前筑後守護になったものの、安定した守護としての管国を持てなかっために現地国人主従関係を築くことが出来ず最終的に全て失った河村昭一はこの20年間を「一色氏権力基盤にとってほとんど意義持たない無駄な時間であったばかりかこの間に他の有力足利一門が着々と政治的経済的実力蓄えていったことを考えると、一色氏守護大名として成長していく上で大きなハンディもたらしたといえる。」と評価している。

※この「九州経略の失敗」の解説は、「一色氏」の解説の一部です。
「九州経略の失敗」を含む「一色氏」の記事については、「一色氏」の概要を参照ください。

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