久能山東照宮の祭主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/17 20:05 UTC 版)
伊勢神宮の祭主は朝廷の官職である神祇大副(あるいは権大副)を本官として兼務することを例としており、三位以上の位階となることも多々あった。東照大権現すなわち武家の棟梁であった家康を祀る久能山の祭主の照久も、それに似せ対抗する形で高位となることを試みた。榊原照久の従二位昇叙後、上洛し昇殿を聴されるといった経緯に、この政治的意味合いがみてとれる。 一方で幕府内では、そこまで高位に叙する必要性があるのか、といった意見もあり、結果として照久一代限りの措置となった。子孫は久能山守衛総御門番を継承し、大身旗本の交代寄合となり、帝鑑間詰めで位階も従五位下(官職は越中守)が定着した。 因みに、照久従二位叙任の年である元和8年の段階での伊勢祭主は藤波種忠であるが、位階は正五位下でしかなく、本官は神祇権少副といった状況であった。榊原照久の従二位叙位を契機に、伊勢神宮祭主も種忠の孫景忠が祭主の代に照久と同じ従二位、さらに上回る正二位への昇叙がなされた。
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