不法居住事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:17 UTC 版)
西ベルリンでは空き家への一斉投機制限により住宅が不足し、多くの貧困家庭や移民が困窮することになった。これに対抗して、1970年代末にクロイツベルク東部の旧郵便区域 SO 36(ドイツ語版)では大規模で盛んな不法居住運動が起こる。1981年7月にはベルリンで不法居住されている住宅は最大の165軒となっていた。これらのうち1984年11月までには賃貸や売買などの契約が成立して不法状態が解決され、残りの住宅では立ち退きの措置がとられた。1980年12月には住居を不法占拠しようとして、不法居住者と警察とのあいだで激しい衝突が起こっていた。また8軒の不法居住の立ち退きに反対するデモに参加していた際、デモ参加者が死亡し、また警察官に突き飛ばされた不法居住者クラウス=ユルゲン・ラタイ(ドイツ語版)がベルリン交通局(ドイツ語版)のバスにひかれて死亡するという事態も起こっていた。 1989年のヴェンデ(ドイツ語版)(大転換)を受けて、東ベルリンのベルリン=フリードリヒスハイン(ドイツ語版)やプレンツラウアー・ベルクで再び不法居住運動が起こる。この運動に対して、とくに東ベルリンの人民警察は積極的に動いて事態は沈静化した。ところが1990年7月に東ベルリン市庁が西ベルリン政府の影響下に置かれたことにより状況は変化した。マインツ通りの立ち退き(ドイツ語版)をめぐって激しい暴動が起こるが、多くの不法居住が以前の不法居住と同じように正常化されていった。その後も残っていた不法居住の住宅はベルリン倫理方針(ドイツ語版)によって許容されてきたが、1996年から1998年にかけてベルリン州内相イェルク・シェーンボーム(ドイツ語版)もとで立ち退きが進められた。
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