下級大臣を歴任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:25 UTC 版)
「フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)」の記事における「下級大臣を歴任」の解説
1807年の総選挙以降も引き続き政権に批判的であり、1809年1月にはパーシヴァルが再びロビンソンの演説を称賛、5月には陸軍・植民地大臣カースルレー子爵により陸軍・植民地政務次官(英語版)に任命されたが、9月にカースルレー子爵とともに辞任した。以降もカースルレー子爵に同調することが多く、1810年2月にはホイッグ党がロビンソンをカースルレー子爵の派閥に分類した。 パーシヴァル内閣では大蔵卿委員会か海軍本部委員会への任命を打診されたが、やはり内閣が長続きしないと判断して辞退した。その後、1810年6月23日にチャールズ・フィリップ・ヨーク(英語版)の説得を受けて下級海軍卿(Lord of Admiralty)への就任に同意した。 1812年にカースルレー子爵が再入閣すると、ロビンソンも官職就任に同意するようになり、8月13日に枢密顧問官に任命され、同年9月にリヴァプール伯爵内閣の商務庁副長官(英語版)に就任した。10月3日には下級海軍卿を退任して下級大蔵卿(Lord of Treasury)に転じた。また、1812年6月にジョージ・カニングのカトリック解放に関する動議に賛成票を投じた後、1813年3月にヘンリー・グラタンが提出したカトリック解放に関する委員会の設立動議を支持した。 1813年11月に下級大蔵卿を辞任して陸軍支払長官(英語版)に転じた。同年末にカースルレー子爵に同伴して大陸ヨーロッパに向かい、1814年のパリ条約に向けた交渉が大詰めを迎えるまで大陸ヨーロッパに滞在した。
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