上諭のみに法的性質を認める説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 07:57 UTC 版)
「三誥」の記事における「上諭のみに法的性質を認める説」の解説
法学者の内、美濃部達吉は、帝国憲法における上諭の役割を強調し、その法的性質を主張している。 美濃部は、帝国憲法の上諭は六文段で構成されており、通常の法律等の上諭が天皇の裁可を公示する形式的なものである中で異例の長文である点に着目し、上諭の法的性質と結び付けて解釈している。すなわち、通常の法律は、条文は帝国議会の審議を経て成立しているが、上諭は天皇大権の内の法律公布権に基づくものであり、議会の審議を経ていない。それゆえ、法律としての効力は条文にしか及ばないものであって、上諭は法的性質は持たず、それゆえ、法律の趣旨などについては言及されない。対して、憲法は帝国議会の成立に先立ち、天皇の統治大権の行使により制定されたのであるから、議会成立後の上諭の性質を無批判に援用することはできない。さらに憲法自体が国家の根本法として重要度は類を見ないものであるから、特に長文の上諭を附して制定の趣旨を解いたものである。それゆえに、上諭も法的性質を帯びる、というものである。 黒田覚は美濃部説に続き、上諭の文言を根拠に、その法的性質を認めている。黒田は、上諭の内、 憲法制定権について、明治天皇は自身が歴代天皇から継承した統治大権によるものであり、その内容はこれまでの天皇の国家統治のありようを明文化したものであること。 天皇の統治権の行使は、この憲法の条規によって行うべきであること(立憲君主制)。 この二点に着目し、この部分は帝国憲法の根本精神であり、帝国憲法の改正の限界性を示している、としている。
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