上皇時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:40 UTC 版)
天皇となった後水尾天皇(政仁親王)との関係は譲位間もない頃から穏当とは言えなかった。後陽成は天皇に引き渡されるべき品物を渡そうとせず、新上東門院が家康に報告した。家康は後陽成の行動を良しとはせず、後陽成はこれに激怒している。品物の引き渡しはスムーズに行われず、翌年7月20日まで続いている。 慶長18年(1613年)に公家を取締るための公家衆法度が制定され、また、幕府の宮中に対する干渉を更に強めることとなり、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となっていく。 慶長13年頃から家康は政仁親王に徳川秀忠の娘和子(のちの東福門院)の入内を打診していた。当初、後陽成上皇は先例のないことを理由として入内を認めなかったが、慶長17年(1612年)にも再度申し入れられた。慶長19年(1614年)にはこれを許可する旨の回答が行われている。 元和3年(1617年)、崩御、宝算47。葬儀は火葬で行われた。次代の後水尾天皇から昭和天皇までの天皇は全員が土葬で葬られているので、現在において最後に火葬で葬られた天皇である。
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