三輪田米山とは? わかりやすく解説

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三輪田米山

読み方みわだ べいざん

神官書家。伊予生。伊予松山日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男勤王三輪田高房元綱は弟。名は常貞・清門、幼名秀雄。字は子謙、別号は得正軒主人国学者大国隆正師事し国学漢学和歌精通した。書は僧明月松山藩日下陶渓・細井広沢の法を学ぶ。明月・僧懶翁と共に伊予三筆一人明治41年(1908)歿、88才。

三輪田米山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/05 10:09 UTC 版)

三輪田 米山(みわだ べいざん、文政4年1月10日1821年2月12日)- 明治41年(1908年11月3日)は江戸末期から明治にかけての書家。本名は常貞、また清門。幼名は秀雄。字は子謙。別号は得正軒主人。僧明月、僧懶翁とともに伊予三筆と並び称される。

人物・来歴

伊予国久米郡(現在の愛媛県松山市)の日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男に生まれる。神官宅は鷹子村、神社は南久米村だが両所は村境を挟んで隣接している。出身地に鷹子村、南久米村の二様があるのはこのためである。

嘉永元年(1848年)、父死去、神官を嗣ぐ。

国学漢学和歌国学者大国隆正に学ぶ。また書を日下陶渓(字・伯巌)を手本に学び、僧明月、細井広沢王羲之書法を研究。

明治4年1871年)、旧松山県より日尾八幡神社祠官に任命。

明治13年(1880年)、隠居。愛媛県中予地方を中心に約3万の揮毫を残す。酒が入らぬと良い書は書けぬと二、三升の酒を浴びるように飲み、倒れる寸前まで飲んでおもむろに筆を取るのが常であったという。書風は豪放磊落にして気宇壮大、雄渾にして天衣無縫、何物にも捉われない破格の書体は、近代書の先駆としていまなお独自の輝きを放つ。また明治天皇の侍侯を務め書の訓導にあたった。

明治41年(1908年)没。享年88。墓所は神社・自宅に近接する四国霊場第49番札所西林山浄土寺

大阪の山発商店(現・アングル・ミユキ)創業者で佐伯祐三の発掘でも知られる山本発次郎が、米山の書を高く評価し蒐集を始める。戦前に集めたものは戦災で灰燼に帰したが、昭和26年(1951年)には米山を「我が国近世五百年間不世出の大書家」と激賞。

平成19年(2007年)、三輪田米山顕彰会が発足。

縁戚

足利三代木像梟首事件の首謀者とされる国学者・三輪田元綱は弟。その妻三輪田眞佐子は三輪田女学校(現三輪田学園中学校・高等学校)の創立者。姻戚に白川義則船田ミサヲ(操、済美高理事長)がいる。

関連書籍

  • 『山本発次郎遺稿』(山発産業 1953)
  • 浅海蘇山『米山 人と書』(墨美社 1969)
  • 高市俊次『瓢壷の夢』(新人物往来社 1987)
  • 横田無縫、入山忍、棚田看山『三輪田米山游遊―いしぶみガイド』(木耳社 1994/7)
  • 成田山書道美術館『三輪田米山の書―近代という憂いのかたち』 (里文出版 2004/7)
  • 鄭麗芸『文人逸脱の書―池大雅・江馬細香・三輪田米山』 (あるむ 2008/6)
  • 小池邦夫『三輪田米山の芸術―鳥舞魚躍』(清流出版 2008/11)
  • 米山顕彰会『米山の魅惑』(清流出版 2008/12)
  • 三浦和尚、福田安典編『三輪田米山日記を読む』(創風社出版 2011/10)

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