一条能保
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 18:42 UTC 版)
「一条家 (中御門流)」の記事における「一条能保」の解説
通重の遺児・一条能保は祖母の上西門院一条によって育てられ、没後に一条室町の邸宅を継承した。後に上西門院の庇護の下にあった源義朝の遺児坊門姫を娶った。坊門姫の兄である源頼朝が平氏政権打倒の兵を挙げると、能保は頼朝と接近し、寿永2年(1183年)11月に坊門姫や平頼盛とともに鎌倉に下向して頼朝と会見し、手厚い待遇を受ける。以後、頼朝の政治力の拡大とともに、鎌倉幕府と朝廷の連絡役として能保の存在感が高まり、鎌倉幕府からは文治2年(1186年)に京都守護に任ぜられ、朝廷においても文治4年(1188年)に能保が従三位に叙されて公卿に列した。建久2年(1191年)には九条良経と能保の娘(頼朝の姪)の婚儀が成立し、後に九条道家が誕生する。後に源氏将軍断絶後に摂家将軍が誕生する背景には摂家九条家に中御門流一条家を経由して河内源氏の血筋が入っていたことによる。能保は最終的に正二位権中納言に昇進した。
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