一本松の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/07 17:58 UTC 版)
1936年(昭和11年)富田商工会の観光案内の内容に「八間道路の南端、十四川のほとりに一本松の老松あり、樹齢700年を経過する」と書いてあった。東富田付近が波打ち際であった頃に、伊勢湾の内海航路の船、伊勢湾の漁船の目印となっていた。「伊勢軍記」によると茂福合戦があり、羽津城の田原氏と茂福城の茂福氏の戦争で、鈴鹿の神戸勢の援護を受けた茂福氏が勝利したとされている。石碑が立てられており、碑文がある。富田地区民の心のふるさとの神の松も 「永年風雪に耐え 樹齢七百年を経て枯死する。ここに往時を偲び 史跡として永久に記念し 後世に伝えるためこの碑を建てたものである」と富田文化財保存会の名で刻まれている。樹齢700年を数え、高さ12mの立派な松でその後は2007年(平成19年)まで高さ5mの幹の部分だけが残っていた。かつてこの地に居住していた俳人山口誓子の「町なかの 昔の松の 春の暮」の句碑がそばに立っています。戦国時代の1560年(永禄3年)の茂福合戦の折には、救援に富田浜に上陸した神戸氏軍による伊勢湾からの上陸作戦の目印として、1568年(永禄11年)の織田信長の伊勢侵攻で家臣の滝川一益の織田軍上陸の際も一本松を富田地域攻略の目印とした。江戸時代の1780年(安政9年)の富田の大火の際に富田の一本松が奇跡的に炎上しなかったので、それをあがめて「瑞祥の松」とも呼ばれていた。この大きい大松は1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の高潮被害を受けて、翌年の1960年(昭和35年)に富田の一本松が枯れて死んだ。
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