ヱスビー食品時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:07 UTC 版)
1983年11月の東京国際女子マラソンに、ロサンゼルス五輪の女子マラソン代表(このロス五輪から女子マラソンが正式種目となる)をめざして出場。このレースには9月に再び日本最高記録を出した増田明美もエントリーしており、マラソンでの2人の初対決が期待されたが増田は直前に足を痛めて欠場した。七恵は先頭に食い下がる我慢のレースからスパートをかけて、結果国内の国際女子マラソン大会で日本人としても初優勝を果たし、念願だったロス五輪代表の座をつかんだ(その後増田も大阪女子マラソンに出走し2位となり、2人が女子マラソン五輪代表となる)。その走り方には、同年ヒットした連続テレビ小説にちなんで「おしん走法」のあだ名も付けられていた。 1984年1月の全国都道府県対抗女子駅伝に岩手県チームのアンカーで出場、実に17人抜きを演じる。この記録は2007年1月、愛知県チームの2区で出場した湯田友美が29人抜き(17人抜き以上が湯田の他に3人いた)を演じるまで23年間破られることはなかった。 1984年8月、ロス五輪の女子マラソン本番レースでは、2時間37分台のゴールタイムで完走したもののメダル・8位内の入賞に届かず、順位は19位に終わる(増田明美は16Km付近で途中棄権)。当時の日本女子マラソン界は、まだ世界との壁が厚かった。 ロサンゼルスオリンピックの後、中村の薦めもあって結婚(夫は永田姓で、自衛隊勤務)に伴い「家庭とマラソンの二足のわらじは無理」と1985年3月の名古屋国際女子マラソンを引退レースと決める。その名古屋国際女子マラソンでは2時間33分台の自己ベスト記録で優勝を果たし、引退の花道を飾った。
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