ローマ_(ローマ神話)とは? わかりやすく解説

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ローマ (ローマ神話)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/08 07:47 UTC 版)

アントニヌス・ピウス記念柱の基壇。右下の敵から没収した武器の上に座っているのがローマ

ローマ(Roma)は、古代ローマ女神で、ローマという都市、ひいては国家を人格化したである[1]アントニヌス・ピウス記念柱の基壇に描かれている。

いつごろ成立したのか

紀元前280年-276年と紀元前265年-242年のローマの硬貨に描かれたヘルメットを被った女神はローマだとされることもあるが、完全に特定されたわけではない[2]。古代ローマの初期の硬貨にはアマゾーンのような女性闘士が描かれたものもあり、ローマではないかと言われているが、女神というよりもゲニウスのようなものと解釈される。エンニウスは「祖国ローマ」をローマに擬人化し、キケロは彼女を「ローマ国家」だとしたが、どちらも「女神」ローマだとは言っていない[3]。ローマ神話の中でローマという名前からその家系が考案され、最終的にギリシアの女神とされた。

ギリシア世界における女神ローマ

初期の女神ローマへの信仰は紀元前195年のスミルナで確立した。これはおそらくローマとの同盟によってアンティオコス3世と対抗できたことに起因する[4]。Mellorはこの信仰をギリシアや東方の君主制の伝統とローマ共和政の慣習を結びつけるための宗教と政治をからめた外交政策の形態ではないかとしている。ローマ国家を神聖なものとして人格化することで、その官職や共和国や都市が神聖で永遠のものであると認めさせたのである[5]アテナイロドス島は共和政の都市国家だったため、Demos(一般大衆)を人格化した伝統的信仰があり、女神ローマを受け入れやすかった。紀元前189年、デルポイリュキアでは女神ローマの祭りが行われた。運動競技やヘレニズム文化全般の神聖なスポンサーとして女神ローマはすんなりと受け入れられ、祭りもよく行われるようになった[6]。紀元前133年、アッタロス3世ペルガモンの人々と領土を女神ローマに(つまり共和政ローマに)遺贈した。これによりアジア属州ができ、そこでも女神ローマへの信仰が急速に広まった[7]

ヘレニズムにおける宗教では、男神には男性の神官、女神には女性の神官が仕えたが、女神ローマの神官は男性だった。これはおそらくローマの軍事力の力強さを認識していたためと思われる。女神ローマの神職は他の神々の神職の中でも高位とされた[8]

アマゾーンが起源と思われる女神ローマだが、ギリシアの硬貨に描かれるローマは、ギリシアの女神のような城壁冠フリギア風のヘルメットを被っている。時には何も被っていない場合もある[9]。その後ローマは、(「誓い」の守護神としての)ゼウスや(「相互信頼」を人格化した)フィデースと結び付けられるようになった[10]。東方におけるローマ信仰は、ローマへの忠誠とローマによる庇護を求めるものだった。ローマ国家への敬意以外に女神ローマを信仰する理由は全くない。Melinno of Lesbos のものとされる女神ローマを称えるサッポー詩体の詩が残っている[11]。共和政ローマ本体とギリシアより西の領域では、女神ローマへの信仰はほとんど見られない[12]

女神ローマの神殿の遺跡は地中海東部でも少ない。祭壇が4つ残っており、1体の意図的に切断された像が見つかっている[9]

ローマ皇帝崇拝における女神ローマ

ローマ (ローマ神話)

ユリウス・カエサルは暗殺によって神格化され、ローマおよび東方植民地の守護神として信仰された。カエサルの後継者アウグストゥスは内戦を終結させ、プリンケプスとなった。そして紀元前30年ごろ、アジア属州やブリタンニアからはアウグストゥスを生きながら守護神として祀ることの許可を求める声が届いた。共和政ローマではヘレニズム的な君主制を軽蔑していたが、あからさまな拒絶は地方民と同盟国を怒らせる可能性があった。そこで、「非ローマ人は女神ローマと共にならアウグストゥスを守護神として信仰してもよい」という注意深い見解が示された[13]。このための神殿が2箇所で用意された。すなわち女神ローマは最初期の「皇帝崇拝」の形態に吸収された。あるいは東方からの観点では、伝統ある女神ローマ信仰の上にアウグストゥス信仰が接木するように生じた。それ以降女神ローマは皇帝やその配偶者の神聖性を引き立てる役を担うことになったが、ギリシアの硬貨の図案には女神ローマを中央に配し皇帝などを従者のように配したものもある[12][14]

皇帝崇拝は東方の独創性に対する実用的かつ巧妙な反応として生じた。伝統的宗教の要素をお色直しして共和政政府と混合し、元首の下での帝国の一体感を示す斬新な枠組みを生み出し、成功を収めた。西方のガリア、ゲルマン、ケルトには君主崇拝の伝統もローマ的な管理体制もなかった[15]ルグドゥヌムには皇帝崇拝のセンターができ、ローマをモデルとした州あるいは自治体単位の議会が導入され、地元の上流階級の人々は皇帝崇拝の神職の選挙を通して市民権の利点を享受した。その祭壇は女神ローマとアウグストゥスのものだった[16]。その後、女神ローマは西方でも貨幣や金石文によく登場するようになった。女神ローマに言及する文献は少ないが、それは無視されたからではなくあまりにも一般化したためではないかと推測される。初期のアウグストゥスの時代、女神ローマは生きた皇帝の配偶者の上で称えられたと見られる[17][18][19]

アフリカ属州では、女神ローマとアウグストゥスの神殿がレプティス・マグナとMactarにあった。イタリア半島では6箇所の神殿が見つかっている。ラティウムには2つあり、そのうち1つは個人が建てたものである。ティベリウスの時代には、オスティアに女神ローマとアウグストゥスの大きな神殿があった[20]

ローマ市内での初期の女神ローマへの信仰は、ハドリアヌスが建設したウェヌスとローマ神殿で、ウェヌスへの信仰と組み合わせたものだった。これは当時市内最大の神殿で、Parilia という祭りを形を変えて復活させる意図だったが、その祭りは女神のローマの東方での祭りに倣って Romaea と呼ばれるようになった。この神殿にはヘレニズム風の女神ローマの座像があり、その右手にはローマの永遠性を象徴したパラディウムがあった[21][22]。ローマでは、これは斬新な具現化だった。ギリシアでローマを威厳のある女神として解釈したことで、軍事支配の象徴だったものが帝国の庇護と厳粛さの象徴へと変わっていった。

女神ローマは地位は不確かなものである。クロディウス・アルビヌスセプティミウス・セウェルスにルグドゥヌムで敗北すると、ルグドゥヌムの神殿から女神ローマ信仰が排除された。ローマとアウグストゥスは新たな抑圧された皇帝崇拝の対象となった。Fishwickはこのルグドゥヌムにおける儀礼の変化を奴隷による家長崇拝に類したものと解釈した[23]。このような時期がどのくらい続いたのかは不明だが、これは他に見られない独自の発展だった。

その後のさらに混乱した時代でも、例えばプロブスドミナートゥスの冠を被った姿を硬貨に描かせているが、裏面はウェヌスとローマの神殿を描いている。プロブスの肖像が専制君主の主権を示すのに対して、女神ローマはその主権があくまでもローマの伝統と帝国の統一に裏打ちされたものであることを示している[24]

脚注・出典

  1. ^ Mellor, 956.
  2. ^ "Sear Roman Coins & their Values (RCV 2000 Edition) #25"(www.wildwinds.com [1]、2009年6月22日閲覧)より。ただし、Mellor, 974-5 には初期のヘルメットを被った肖像へのより試験的なアプローチを試みている。他にディアナという説や、トロイ人虜囚のRhome(ギリシア語の rhome すなわち「強さ」を神格化した女神)という説もある。Rhomeについては Hard, R., Rose, H.J., The Routledge Handbook of Greek Mythology, 2003, p586: 部分プレビュー: [2].
  3. ^ Mellor, 963, 1004-5.
  4. ^ Tacitus, Annals, 4.56
  5. ^ ローマへの信仰が他の信仰に取って代わったわけではない。例えばギリシア好きの将軍フラミニヌスはギリシアの要請でセレウコス朝と戦ったことから、ローマと共に神聖視された。[3] (accessed June 29, 2009)
  6. ^ Mellor, 967.
  7. ^ Mellor, 958-9.
  8. ^ Mellor, 965-6.
  9. ^ a b Mellor, 960-3.
  10. ^ ローマにおけるフィデース信仰は共和政後期に確立した: Cicero, De Natura Deorum, 2. 61.
  11. ^ English and Greek versions in Powell, Anton, The Greek World, Routledge, 1997, p369: limited preview available - [4]
  12. ^ a b Mellor, 972.
  13. ^ 支配者信仰を現代的観点からまとめたものとして次がある。Harland, P.A., Introduction to Imperial Cults within Local Cultural Life: Associations in Roman Asia, 2003. Originally published in "Ancient History Bulletin / Zeitschrift für Alte Geschichte" 17 (2003):85-107. オンライン版: [5]
  14. ^ Ando, 45.
  15. ^ イベリア半島で女神ローマとアウグストゥスへの信仰が存在した可能性があり、おそらく紀元前19年以降に急速に生じたものと推測される。see Mellor, 989.
  16. ^ 祭壇は紀元前10年または12年のもの。
  17. ^ Fishwickは、ローマが女神としてヘレニズム世界で(アウグストゥスに)先行して存在したことが西方の信仰でも受け継がれたと見ている。
  18. ^ Mellor, 990-993: Mellorはそれまでのローマとヘレニズム世界の協力と文化変容の枠組みよりも皇帝崇拝を弱いものと見て、アウグストゥスやその後の皇帝崇拝に女神ローマが必須のものだったとしている。プリンキパトゥス時代の皇帝は「元老院とローマ市民」の代表であり公僕だという建前であり、専制君主ではなかった。
  19. ^ ルグドゥヌムの神官はギリシア語で sacerdos と呼ばれた。ローマの伝統に反して複数の神々に仕える神官は flamen と呼ばれた。一般に神格化された女性には女性神官が仕えた。中には男性神官の妻が女性神官となることもあったが、多くは独自に選ばれた。西方の皇帝崇拝では、信仰と神職の解釈が極めて大まかだった。しかし、唯一の例外(トゥールーズ)を除いて女神ローマに仕えるのは、ヘレニズム世界と同じく男性神官だった。See Fishwick vol 1, 1, 101 & vol 3, 1, 12-13, & Mellor, 998-1002.
  20. ^ Mellor, 1002-3.
  21. ^ Beard et al, vol 1, 257-9.
  22. ^ Mellor, 963-4.
  23. ^ Fishwick,Vol. 3, 1, 199.
  24. ^ プロブスの硬貨の例: Doug Smith's website: [6]

参考文献

  • Ando, Clifford, Imperial ideology and provincial loyalty in the Roman Empire, illustrated, University of California Press, 2000. ISBN 0520220676
  • Beard, M., Price, S., North, J., Religions of Rome: Volume 1, a History, illustrated, Cambridge University Press, 1998. ISBN 0521316820
  • Mellor, R., "The Goddess Roma" in Haase, W., Temporini, H., (eds), Aufstieg und Niedergang der romischen Welt, de Gruyter, 1991. pp 950-1030. ISBN 3110103893

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