ロマノス2世の皇后として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 06:05 UTC 版)
「テオファノ」の記事における「ロマノス2世の皇后として」の解説
959年に急死したロマノスの父、皇帝コンスタンティノス7世は、テオファノが毒殺したと噂された。しかしコンスタンティノスの死因は熱病であるし、毒殺の証拠もない。政治に興味のないロマノスは妻のいいなりで、何年もテオファノの操り人形であったとも言われている。遊び好きの夫ロマノスを支えてきたのが、父帝時代からの重臣である宦官のヨセフ・ブリンガスと名将ニケフォロス・フォカスであった。 バシレイオス2世、コンスタンティノス8世という世継ぎを産み、宮廷の女主人となったテオファノは目障りだった小姑達(ロマノスの妹)を修道院へ追い払い、さらには姑である皇太后ヘレネも修道院へ入れるようロマノスに意見した。ロマノスもさすがにこれには聞く耳を持たず、修道院へ入った妹達に対しても宮廷にいた時と同じ生活が出来るよう配慮したが、ヘレネは娘達の不幸を嘆いて病死した。これは間接的にテオファノが姑を殺したようなものであった。 因みに、ヨハネス・スキュリツェスの年代記では、ヨセフ・ブリンガスと対立関係にあった皇太后ヘレネの異母弟である宦官バシレイオス・レカペヌス(ソノス)はロマヌス2世の次男コンスタンティノスの寝室管理長官であったと記している。 963年3月15日、ロマノスは復活祭の最中であるにもかかわらず、道も無いような山奥へ狩りに出かけ、その最中の事故により26歳で急死した。再び、テオファノが毒殺したのではと噂されたが、夫が皇帝であったからこそ彼女は思うままに振る舞えたのであり、仮に毒殺しても何の得にもならないので、その可能性は低い。しかも彼女は、娘アンナ(のちのキエフ大公ウラジーミル1世妃)を出産したばかりだった。
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