ロジャース・ホーンスビーとフランキー・フリッシュとの交換トレード
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「1926年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ロジャース・ホーンスビーとフランキー・フリッシュとの交換トレード」の解説
ナショナルリーグで5位に終わったニューヨーク・ジャイアンツは、ジョン・マグロー監督とフランキー・フリッシュとの確執が大きく影響して、1903年以降では2回目の勝率5割に達せず、散々なシーズンとなった。シーズン終了後にマグローはチームの中心バッターであったフリッシュの放出を決意した。 一方この年のシーズン終了後、カージナルスのホーンスビーは球団に年5万ドルの3年契約を求めた。しかしカージナルスのオーナーのサム・ブレッドンはそれを認めず1年契約で平行線となった。そして12月になってニューヨーク・ジャイアンツのフランキー・フリッシュ、ジミー・リングとの交換トレードでホーンスビーはニューヨーク・ジャイアンツに移籍することになった。セントルイスのファンは大騒ぎして大反対したが、結局このトレードは成立した。 1920年代前半にセントルイスにはナショナルリーグのカージナルスにロジャース・ホーンスビーが、アメリカンリーグのブラウンズにジョージ・シスラーがいて、どの都市にも見られない同じフランチャイズでの打者としての争いが繰り広げられ、どちらも4割を打ち、ホーンスビーは三冠王を獲得し、シスラーはシーズン最多安打記録257本を1920年に達成してレベルの高い記録を残していた(この記録は2004年にイチローが破った)。 しかしこの交換トレードは結果としてセントルイス・カージナルスにプラスとなった。
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