ロジャヴァ自治政府の発足
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「ロジャヴァ革命」の記事における「ロジャヴァ自治政府の発足」の解説
「ロジャヴァ」も参照 2012年8月1日、国内の隅々に広がっていたアサド政権のシリア軍はアレッポへむけて撤退していった。アレッポではシリア政権軍と、自由シリア軍とその同盟軍との戦闘が激しさを増していた。このシリア軍の撤退を受けてクルド人民防衛隊(YPG)はほとんど犠牲を出すことなく、カーミシュリーの一部、アフリーン、アムダ(Amuda、Amude)、テルバスピ(Terbaspi)、コバニを支配に置いた。 2012年8月2日、民主化のための国民協調委員会(仮)は発表を行う。カーミシュリーとハサカを除き、クルド人が多数を占める街ではクルド人の政治組織が行政を取り仕切るという内容であった。カーミシュリーではクルド人の旗が掲げられていたが、政府軍と警官隊が彼らの兵舎と官舎に残っていた。 8月にはクルド人は地域ごとの集会を発足させ、検問所を設けていると伝えられた。すでに北東シリアからイラクにかけての国境からシリア政府軍は撤退していた。クルド人は政府軍、反政府軍のどちらであろうとクルド人の街に侵入することは認めないと宣言した。カーミシュリーの一部の地域ではまだ政府軍の検問所が存在していたが、クルド人はシリア政府との協力関係は否定し、一部政府軍の駐屯を許しているのは軍事衝突を避けるための措置であるとした。同じ月に自由シリア軍はカーミシュリーにある政府の情報局の爆破に成功している。 クルド人民防衛隊(YPG)の事実上の支配から数ヶ月、2014年1月9日にYPGは公式に地域の行政を地域ごとの自治体に委ねると表明した。選挙が実施され、民衆の集会という制度が形作られロジャヴァ憲法が公布された。以来住民は地域の集会を開くようになり、学校が始まり、集会所が建てられた。一方で領土的野心をもって拡大を続けるISISと衝突し、退けるために戦った。クルド人は彼らの大衆の民主主義という政治モデルがアサド政権後のシリア全土に受け入れられ得るものだと考えている。
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