ロシア・アメリカ間の合意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:14 UTC 版)
「アラスカの歴史」の記事における「ロシア・アメリカ間の合意」の解説
ロシア国内の財政事情の悪化、アラスカがクリミア戦争を戦ったイギリスの手に落ちることへの恐れ、居留地が大して利益を上げないこと、これら全ての要因がロシアをアラスカ売却へと駆り立てた。1867年4月9日、アメリカ国務長官のウィリアム・H・スワードが720万ドルでアラスカを購入した。 720万ドルは2005年現在の価値に換算するとおよそ9075万ドルである。シトカに星条旗が掲げられた10月18日は現在アラスカの日となっている。領有国の変更に伴い、当時の日付変更線は西にずらされ、アラスカはユリウス暦からグレゴリオ暦に改められた。そのため、1867年10月6日金曜日の次の日は1867年10月18日金曜日となった。日付変更線の移動によって二日続けて金曜日が来たのである。この買収は「スワードの愚行」「スワードの冷蔵庫」と言われ、当時は評判が良くなかった。しかし後に金が発見されたことでこの買収が無駄ではないことが分かった。 1867年から1877年までは陸軍省の管轄に置かれ、1879年までは財務省、1884年までは海軍省が管轄した。1884年アラスカは司法権を持つ属領地となり、学校、連邦地方裁判所が設置された。アラスカが買収された時、広大な地域はまだ探検隊が入ったことのない土地だった。1865年、ウエスタンユニオンがアラスカからベーリング海峡を抜けてアジアを結ぶ電話線を敷設した。この地域の最初の科学的な調査が行われユーコン川の全域の地図が作られた。アラスカ商業会社と軍は1890年代のアラスカ探検に寄与し、川沿いに多くの交易所を設けた。
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