レーン夫妻の再招聘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 00:19 UTC 版)
「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件」の記事における「レーン夫妻の再招聘」の解説
1949年(昭和24年)、中谷宇吉郎はアメリカ出張の折にレーン夫妻宅に宿泊し、ふたりが札幌への帰還を強く願っていることを聞かされた。 獄中のつらい生活のことは、これは天災だから仕方がない、しかし友情の結びつきのほうがもつと強い — 中谷宇吉郎『花水木』文芸春秋社、1950年、p.191 北大では夫妻の再招聘の声が挙がり、1951年(昭和26年)にハロルドは北大教養部の英語教師となり、続いてポーリンも北海道教育大学の教師として着任した。夫妻が訪日して真っ先に行ったことは宮澤家への訪問であったが、宮澤の母は夫妻を事件の元凶とみなしており、花束の受け取りを拒否してしまう。 1960年(昭和35年)、「英語教育の発展と国際平和・日米友好関係の促進への貢献」を理由として、日本政府はハロルドに勲五等瑞宝章を授与した。 ハロルドは1963年(昭和38年)に、ポーリンは1966年(昭和41年)に相次いで死去し、ふたりは札幌の円山の地に葬られた。 なおハロルドの死後、彼の蔵書をポーリンが北大に寄贈しており、北海道大学附属図書館の北図書館の一角に「レーン文庫コーナー」として遺されている。また、ふたりの退官後の生活支援の寄付金を基にして、1966年(昭和41年)にレーン記念奨学金が創設された。 レーン夫妻の墓(左) レーン文庫コーナー
※この「レーン夫妻の再招聘」の解説は、「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件」の解説の一部です。
「レーン夫妻の再招聘」を含む「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件」の記事については、「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件」の概要を参照ください。
- レーン夫妻の再招聘のページへのリンク