レンジャーの募集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 15:33 UTC 版)
「ロバート・ロジャーズ」の記事における「レンジャーの募集」の解説
ロジャーズの偽造に関する訴訟中に戦争が起こった。植民地政府は偽造で罰するよりもフロンティアで経験を積んだ者の必要性が高いと判断した。このためにロジャーズに対する告発は取り下げられた。ロジャーズは解放されると1775年に有名なジョン・ウィンスロー大佐の正式な徴兵者に割り当てられた。 1756年、ロジャーズはニューハンプシャーのポーツマスに行き、ウィンスロー大佐から与えられた権限を使って、イギリス軍のための徴兵を始めた。ロジャーズが集めた兵士の部隊が「ロジャーズ・レンジャーズ」と大衆から呼ばれるようになったのはこの時期だと考えられている。 この時期のフロンティアではインディアンからの攻撃が起こっていたので、ロジャーズの徴兵活動は恐怖と怒りを抱いた植民地人に支持された。ポーツマスでロジャーズは英国教会系アーサー・ブラウン牧師の一番下の娘エリザベス・ブラウンと出逢った。エリザベスは後にロジャーズの妻になった。1756年の暮れまでにロジャーズはレンジャーズの3個中隊を立ち上げ、合計4個中隊を自ら指揮した。 ロバート・ロジャーズの弟達、ジェイムズ、リチャードおよびおそらくジョンが皆ロジャーズ・レンジャーズに入った。リチャードは1757年にウィリアム・ヘンリー砦で天然痘のために死んだ。その遺骸は後に敵対的インディアンによって掘り出され、損傷された。ジェイムズはアメリカ独立戦争終盤にキングス・レンジャーズでロバートと同じ地位に就いた。ジョンについてのその後は分かっていないが、ロバートが1762年にサウスカロライナのチャールストンを訪れた後、そのまま南部に留まったと考えられている。
※この「レンジャーの募集」の解説は、「ロバート・ロジャーズ」の解説の一部です。
「レンジャーの募集」を含む「ロバート・ロジャーズ」の記事については、「ロバート・ロジャーズ」の概要を参照ください。
- レンジャーの募集のページへのリンク