レッドブル・ヤマハ時代
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「ワールド・チャンピオンシップ・モータースポーツ」の記事における「レッドブル・ヤマハ時代」の解説
1997年、チームに転機が訪れた。シーズン開幕時にはカーク・マッカーシー1人がROCヤマハを駆る、例年と同様と体制だったが、第2戦終了後にYamaha Promotor Racing チームが急きょ撤退することになり、ヤマハは行き場を失った2台のYZR500(ワークス仕様)と2人のライダー(ルカ・カダローラとトロイ・コーサー)の引き継ぎをWCMチームに依頼した。第3戦ヘレスより、WCMチームは新たに栄養ドリンクメーカーレッドブルのスポンサードを得て、レッドブル・ヤマハ・WCMとして、2台のYZR500と1台のROCヤマハを走らせることになった。突然ワークスマシンとトップクラスのライダーを得たチームのパフォーマンスは大きく向上し、第4戦ムジェロでは、カダローラがチームに初表彰台をもたらした。契約上の問題からコーサーはシーズン途中でチームを去り、マッカーシーが代わってYZR500に乗るようになった。最終的に4回表彰台を獲得したカダローラは、この時点でのチーム最高位となるシリーズランキング6位に入った。 1998年、チームはレッドブルの地元オーストリアに本拠地を移した。ライダーのラインナップは一新され、サイモン・クラファーとレジス・ラコーニがYZRを駆った。第8戦ドニントンで、クラファーはチームに初の勝利をもたらした。 翌1999年は、第12戦バレンシアでラコーニが自身初となる勝利を果たした。一方クラファーはミシュランタイヤへの順応に苦しみ低迷、シーズン途中でギャリー・マッコイと交代になった。マッコイはラコーニが勝利したバレンシアで3位表彰台を獲得した。 2000年がチームにとっての絶頂期となった。マッコイとラコーニは共にチームに残留し、マッコイがシーズン3勝を果たしシリーズ5位を獲得した。また、彼のスライド走法を駆使した豪快なコーナーリングは多くのメディアやファンの注目を集めるところとなった。 翌2001年はラコーニに代わって前年度スーパーバイク世界選手権シリーズ2位の芳賀紀行がチームに加入した。マッコイは怪我の影響もあって未勝利のシリーズ12位に終わる。芳賀も乗り慣れないYZR500に手こずってシリーズ14位に沈んだ。 2002年、500ccクラスは再編されてMotoGPクラスとなり、新たに4ストローク990ccのマシンが主力となったが、WCMは旧型のYZR500を使い続けることになった。芳賀に代わって加入したジョン・ホプキンスは、ルーキーとしてはまずまずの活躍を見せてシリーズ15位に入った。一方マッコイは怪我で欠場することも多く、シリーズ20位に沈んだ。6年間スポンサーを務めたレッドブルはこの年をもってチームを去り、翌年からは125ccクラスのKTMチームをサポートするようになった。
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