ル・ベックの修道士とは? わかりやすく解説

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ル・ベックの修道士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 06:44 UTC 版)

アンセルムス」の記事における「ル・ベックの修道士」の解説

神聖ローマ帝国治下ブルグント王国アルル王国)の都市アオスタ誕生したアオスタは、今日フランススイス両国国境接する、イタリアヴァッレ・ダオスタ州位置する。父のガンドルフォはランゴバルド貴族であり、また母のエルメンベルガもブルグント貴族出自であり、大地主であった。 父は息子政治家の道を歩ませたかったが、アンセルムスはむしろ思慮深く高潔な母の敬虔な信仰大い影響された。15歳の時、修道院に入ることを希望したが、父の了承を得ることはできなかった。失望したアンセルムス心因性の病を患い、その病から回復して一時の間、彼は神学の道をあきらめ放埓な生活を送ったといわれるこの間彼の真摯な気持ち理解してくれていた母が亡くなったため、アンセルムスこれ以上父の激し性格我慢ならなくなった1056年もしくは1057年)に家を出たアンセルムスブルグントフランス歩いてまわった。その途中ブルグントにあるベネディクト会クリュニー修道院、その系列のル・ベック修道院副院長当時務めていたランフランクス高名聞きつけ、アンセルムスは同修道院のあるノルマンディーに向かう。そして滞在していた1年間の内に、同修道院修道士として生きること決意するアンセルムス27歳時のことである。また、幼い頃からすばらしい教育受けてきたアンセルムス才能開花するのはこの時からである。 3年後1063年ランフランクスカーン修道院長任命された時、アンセルムスはル・ベック修道院副院長選出された。彼はその後15年間にわたってその座にあり、1078年、ル・ベック修道院の創設者であり初代修道院長であるヘルルイヌスの死によって、アンセルムスは同修道院長選出された。彼自身積極的に推し進めたわけではないが、アンセルムスの下で、ベックヨーロッパ中に知られる神学の場となったこの期間に、アンセルムス最初護教論文『モノロギオン』(1076年)と『プロスロギオン』(1077-78年)が書かれた。また、問答作品真理について』、『選択の自由について』、そして『悪魔堕落について』が書かれたのもこの時期である。

※この「ル・ベックの修道士」の解説は、「アンセルムス」の解説の一部です。
「ル・ベックの修道士」を含む「アンセルムス」の記事については、「アンセルムス」の概要を参照ください。

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